自分の不幸も蜜の味?
よく「他人の不幸は蜜の味」だと言われます。
人間は他人の不幸は必ずしも望まない代わりに、自分の幸せは常に望んでいるように見えます。
ですが、自分が失敗したときに「ほれ見たことか!」と言って、ますます確信を強固なものにするようなメンタルセットが自分の中にある気がしています。
そいつは普段はおとなしいんです。
のんびりしているときや、慣れたこと・得意なことをやっているときには出てきません。
ところが、一歩外に踏み出そうとすると、そいつの存在を感じるときがあります。
いわゆる「根拠のない自信」の逆パターンですね。
だからこそ、そいつに根拠を問いかけるようにします。
「コイン投げてもムダだ! どうせ裏しか出ない! 現に今裏が出ただろ!」
「うん、確かに今裏が出たことは事実だ、それは認める。でも、だからといって、次にコインを投げたときに裏が出る確率が100%になるか? 1/2じゃないか?」
こんなふうに。
ただ、こいつはこいつで、
「理論上はそうだ、でも今裏が出たから、100%裏が出続けるに決まってる!」
みたいなごり押しをしてくるからたちが悪いんですよね。
そんなときに、
「うん、じゃあ100%裏でいいよ。その代わり、俺は俺でやるから」
みたいに返せればいいんですけどね。
100%裏しか出ない世界なら、それは100%表しか出ない世界と本質的には変わらない。
何をやっても結果が同じになるわけですからね。
だったら自由にやらせてくれよ、で話が済むような気もしますね。
まあ実際に裏目に出たときにそこまで割り切れるかどうかという話もありますが。
で、最後はお決まりの「どうせ100%失敗するなら、何もしない方が相対的にプラスになるだろ!?」のセリフで、行動しない人間になっていくわけです。
結局のところ、「失敗してでも何かをやりたい」という「意志」がないから、こういう甘ちゃんを自分の中に飼ってしまうんでしょうね。
というわけで、突き詰めると「俺はこれがしたい!」というビジョンの欠落に端を発するのかなと。
んで、「ビジョンはないけどプラスは欲しい!」みたいな思想だから、盛んに吠えるわけです。
ビジョンなくしてプラスなしです。
方針を示すか欲しがらないかの二択でしょう。
逆に言うと、少しでも欲しいと思うならさっさと方針を示すべき。
そうしないと、いつまで経っても自分の中にわがままなガキを飼い続けてしまうのです。
自分の幸せを心から喜べる大人に早くなりたいものです。
職場の大先輩が亡くなられました。
まだ五十代でした。
驚いたのは、過労死するような兆候がまったくなかったことです。
以下は自分が知る限りの印象です。
仕事的には、現場で若手の実務をサポートする立場であり、高い質を見せながらも比較的余裕を持って働いていたと思います。
性格的にも、常に笑顔を見せていて、かつ言いたいことははっきり言う方でしたので、ストレスを溜め込むようにも見えませんでした。
定期的な通院こそしていたようですが、年齢が高くなれば病院通いが多くなるものだと思っていましたので、そこまで不思議には思いませんでした。
先週も社内で顔を合わせたばかりで、亡くなられたことがにわかには信じられませんでした。
月並みですが、人はいつ死ぬか分からないという当たり前の事実をシンプルに突き付けられた気がしました。
先輩の死は何を遺したのか。
人はなぜ生きるのか。
よく分からないままに、今日を生きていないか。
何の覚悟も投げ入れず、池に波紋を広げない人生でいいのか。
死は肉体の終わりに過ぎなくとも、その肉体に与えられた使命を十分に果たしたのか。
あまりうまく言葉にはできませんが、そのようなことを考えました。
人生について、もう一度考え直すときが来たのだと思います。
ふさわしい答えが出るかは分かりませんが、絶えず問いかけ続けていきます。
何かをやめるときの基準。
ライトなものは別として、結構な割合を占めている時間や趣味が人にはつきものですよね。
はたして、そういうものをやめるかどうかの基準は何か?
何かをやめると、「空いた時間」ができます。
その「空いた時間を何に使うか」がはっきり見えたときが、やめるときだと考えています。
例えば、会社は週5勤務&定時としても、一日8時間×5=週40時間ありますよね。これに残業や休出が加わるともっと増えます。
「会社を辞めるかどうか?」という問いは、「週40+X時間を何に使うか?」という問いとほぼイコールだと考えています。
ここで、その40時間以上を無為に過ごすようであるならば、辞めない方がよいということです。(リストラや体調不良など止むを得ない場合はその限りではありませんが)
つまり、
・やめたらどれぐらいの時間ができるのか
・その時間でどういった割合で何をするか
こういう青写真を描けるかどうかが重要だと思っています。
会社はかなり極端な例ですが、時間や状況をイメージしやすいと思われたため、一例として採用しました。
もちろん、その時間の使い方は変わるものです。
やっぱりこういうふうに使おうとなるかもしれません。
むしろ、そうなるのが普通です。
それでも、最初に「使い方のイメージ」が見えているかいないかでは大違いだと思います。
いきなり変な方向に進み出す可能性がぐっと減りますから。
あとは、「やめる前」と「やめた後」を比較することも大切です。
会社の例だと、「浮いた40+X時間」が将来的に(短期にしろ長期にしろ)ペイするかどうかという視点ですね。
金銭は大きな要素の一つですが、それ以外も含めて総合的に。
ここは個人の嗜好や信念も関わるので一概には言えない部分だと思います。
目に見えない「納得感」のようなものが人間の行動を決めていて、かつそれは決定的に作用しますから、最後は自分で決めるしかないでしょう。
というわけで、何か大きなことをやめる場合は、
「やめた後の時間の使い方から逆算し、かつその使い方に納得がいくかどうか」
で考えるべきだと思います。
【書評】悩みどころと逃げどころ
プロゲーマーのウメハラこと梅原大吾氏と、社会派ブロガーちきりん氏の対談本です。
内容の詳細については購入していただくか、レビューを見ていただくとして、この本を読んで私の中にあった疑問が氷解したような気がしました。
私は、ゲーマーの端くれとして、大会というフォーマットに以下のような疑問を持っていました。
「大会では必ず優勝者を除いて敗者になってしまう。このようなフォーマットにおいては苦しみが多くなってしまうのではないか」
この疑問に対して、本書でウメハラさんが語っていたことが答えをくれた気がしました。
語られた内容をかいつまんで紹介すると、このような感じです。
・結果自体は負けであっても、それは今後や己を知ることにつながること
・ただ上手いだけでなく、自らのプレーを通じて人々を感動させることが重要であること
・一人だけが強くなるのではなく、コミュニティ全体の実力の向上に貢献すべきであること
つまり、勝ち負けはあくまで数ある要素の中の一つであって、「その周りに」どのような影響をもたらしたかが重要だということです。
この話を聞いて、自分が短絡的に「負け=苦しみ」と考えていたことに気づかされました。
他にも、簡単で強いキャラを使っているといずれ勝てなくなる話や、長期的にはただ勝つことよりも仲間に尊敬されることが大事だという話が心に響きましたね。
勝ちさえすればよいのではなく、どういうプレイスタイルなら自分もみんなもハッピーになれるのか、そういったことを考えながら今後もプレーしていきたいと考えています。
- 作者: ちきりん,梅原大吾
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2016/06/01
- メディア: 新書
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虚栄心は存在しない。
https://blog.tinect.jp/?p=12622
上記のエントリーで、野心と虚栄心についての話題が出てきました。
まとめますと、虚栄心が野心より強い起業家は次第に立ちいかなくなっていくという話です。
これを読んで、虚栄心という概念は実は存在しないのではないかと私は考えました。
これは、ちょうど「闇」が存在しないという話に似ています。
太陽が昇れば、闇は消えてしまいますよね。
闇というのは、言い換えれば「光の欠如」なわけです。
つまり、存在するのは光だけであって、それがあるかないかの違いにすぎません。
野心と虚栄心の関係もこれと同じだと考えています。
すなわち、虚栄心は単に「野心の欠如」にすぎないというわけです。
分かりやすく言うと、「自分の意志がないから、人の評価が気になる」ということですね。
いつだって問われるのは「自分の意志があるかないか」です。
他人の人生を生きていないか?と自身に問いかけて、はっきりと否定できなかったら、変える余地が大いに残されているということでしょう。
「俺!臆病な俺!そんな取り分で満足か? ホントに欲しかったものはどうした?」
薄っぺらいプライドの闇に埋もれてないで、自ら世界を照らしに行きます!
セルフストッパーをどう外すか。
いつだって、最大の敵は自分の中にいるんですよね。
経験上、たとえ周りが何と言おうとも、「俺はこうするんだ!」って思って動いていけば、だんだん道は開けてくるんですね。
法律や道徳に反するようなことでもない限り。
問題は、「俺はこうするんだ!」の魔法が解けたときにやってきます。
そのときになって初めて、自分のしてきたことが正しいのか不安になる。
自分が今実現したい夢について、「やれるかやれないか」で言ったらおそらく「やれる」という感覚を持っています。
で、おそらく最大の障害になりそうなのが、自分の中のセルフストッパーなわけです。
瞬間的に見ないふりをすることはできるかもしれませんが、自分とは確実に生涯付き合っていくわけですから、ごまかし続けることはできません。
この強敵をどうやって倒すのか。
結局のところ、「何としても消し去らなければならない」という強い意志を持って排除するしかない。
ただし、直接排除しようとしても、しぶとくこびりついてしまうだろう。
こいつのせいでどれだけの機会が奪われたか。
こいつのせいでどれだけ自らが卑小たらしめられたか。
こういった「損失」を明確に自覚して、こいつを体内に住まわせるのは「損」であると脳に思い込ませるしかないのかもしれない。
脳は損得に敏感だから、「損」であると判断させられればそれとなく追い出すことができるだろう。
北風と太陽のようなもので、コートを脱いだ方が「得」だと思われれば、人は黙っていても余計なものを脱ぎ捨てることができるわけだ。
ストッパーを外すと気持ちがいいーー
法律や道徳に触れない範囲で、自分にそう思わせるように動いていこう。
お金は「人生の絵の具」を買うためのもの。
タイトルはどういう意味か?
自分、「お金を気にして○○ができない」ってマインドがすっごく嫌なんです。
画家が描きたいイメージがあったとして、絵の具が揃ってないから描くのを諦めるってあり得ないですよね? そんな感じです。
とはいえ、そんなに高級な絵の具を所望しているわけではありません。
あくまで、「これなら○○ぐらいかな~」という自分のイメージに当てはまればOK。
人生というキャンバスに絵を描くときに、絵の具の存在を意識せずに描けたらいいなーみたいな感じです。
色がイメージと合っていれば安い絵の具でも問題はない、ただし合う系統の色自体を持っていなかったら何としても手に入れます。
高ければ高いほどイメージに合致するというわけでもないので、そこは自分の胸にきくしかありません。
とはいえ、セルフイメージが変わればこの考え方も変わるのでしょう。
皆さんに絵の具を分け与えて、互いにインスピレーションが広がるような状況を作るのが理想です。
そのためには、まず鮮やかな色の存在を知らないといけませんね。
これからも外から色々な刺激を得ていきたいと思います!